— 経絡治療(けいらくちりょう)の誕生 —
明治新政府による西洋医学を主体とした医療政策により、それまで日本の医療を支えていた漢方(鍼灸・湯液などを用いた伝統医療)は存続の危機に立たされます。
鍼灸も科学化の名の下に伝統的な鍼灸術の本質を失いかけていましたが、昭和の初期、中国鍼灸治療の古典『素問(そもん)』と『霊枢(れいすう)』に着目し、これを研究・継承するという試みを始めた柳谷素霊(やなぎや それい)の「古典に還れ」という言葉に呼応した井上恵理(けいり)・岡部素道(そどう)・竹山晋一郎の各鍼灸術師をはじめとする先駆者たちによって、1939(昭和14)年3月「新人弥生会」が結成され、鍼灸治療のあるべき姿、つまり伝統的な経絡観・生理病理観、そして診断法・治療法の再構築を進めていきました。
彼らはこれを「経絡的治療法」と名づけ、当時の漢方復興運動の気運にあわせて啓蒙運動として広げていきました。本会学術の基本理論である「経絡治療」の礎がここに誕生します。
— 東洋はり医学会創設者 福島弘道 —
1910(明治43)年長野県に生まれた東洋はり医学会創設者の福島弘道(こうどう)は、1932(昭和7)年、22歳で出征し満州事変にて目と耳を負傷し帰国後失明してしまいます。
自暴自棄になり3回自殺未遂を試みるも失敗、自らの天命を知り1934(昭和9)年、24歳で長野の松本盲学校に入学します。
ところが、あん摩になることを親類縁者から猛反対を受け、それならばと鍼灸の道を目指しました。
卒業後1939(昭和14)年に新宿にて独立開業しましたが、真に治療効果が見込める鍼灸術の会得に暗中模索の日々が続きます。
— 福島弘道と経絡治療との出会い —
昭和15年、竹山晋一郎の編集による鍼灸専門誌「東邦醫学」に、「臨床時に於ける脉診と経絡の関係に就いて」と題した岡部素道の論文が掲載され、これを読んだ福島弘道は「脉診による経絡治療」の整然とした治療体系に痛く感銘を受け新人弥生会への入会を熱望しましたが、盲人は古典が読めないという理由で断られたため、1941(昭和16)年5月、東洋はり医学会の前身である「盲人経絡治療研究会」を山下誠亮(せいすけ)を会長、小里勝之を副会長として結成しました。
次第に戦争が激しくなり会員は疎開のため離散、やむなく休会することとなりましたが、 終戦後の1952(昭和27)年に再び東京に戻った福島は鍼灸師に会の再発足への参加を呼びかけます。
そして1959(昭和34)年5月17日、福島弘道・小里勝之・高橋泉隆・高橋秀行・里見豊也、計5名の視覚障害者の発起人によって本会は「東京古典はり医学会」として発足しました。顧問には井上恵理・岡部素道・竹山晋一郎・本間祥白(しょうはく)、相談役に肥後基一(きいち)が就任しました。
その後「東洋はり研究会」に改名、1968(昭和43)年5月に「東洋はり医学会」となりました。
「東洋はり医学会」となってからは視覚障害者だけにとどまらず晴眼鍼灸師の入会を認めたこともあり、現在海外に12支部、国内に35支部、会員数は約1,000人という大規模な組織に発展しています。
— 東洋はり医学会関西の歩み・・・創設者 宮脇優輝 —
1944(昭和19)年12月、大阪に生まれた東洋はり医学会関西創設者の宮脇優輝(旧名・和登)は、幼少の頃より目が不自由であったため様々な辛い目に遭いながらも元来の負けん気の強さを発揮し気丈に過ごしました。
小学生の頃から建築家になるのが夢で、一度は設計と製図の仕事に就きましたが、図面の読み違えるミスを犯したまま製品が仕上がってしまったことをきっかけにこの仕事を断念し、1967(昭和42)年大阪市立盲学校高等部に入学、按摩業を目指しました。按摩マッサージ指圧師の免許取得後、1969(昭和44)年大阪淀川区の旧黒田病院でマッサージ師として勤務していた時代に、院長と共に参加した鍼灸良導絡医学会で、憧れの存在であった関西鍼灸専門学校で指導されている故和田清吉先生と出会い、その崇高なお人柄と貫禄を目の当たりにし和田先生と同じ「鍼の道」を進むことを決意、関西鍼灸柔整専門学校(現関西医療学園専門学校)に編入しました。
そしてこの学校でも運命的な出会いがありました。最終学年時に故山本常夫先生の授業を受けた際、脉診をしながら鍼をする鍼灸治療を初めて見ることになります。
その勉強方法を尋ねたところ、福島弘道の著書『経絡治療要綱』を進められ読んでみたものの、当時はよく理解できませんでした。1972(昭和47)年卒業後4月に自宅を改装して開業しましたが、やはり経絡治療が必要と判断し、昭和51年4月より東洋はり医学会に入会し東京本部に月1回通うことになります。
そこで憧れの福島弘道と出会い、学術に対する熱心さを認められ、大阪に新たな支部結成の依頼を受けます。
— 北大阪支部結成 —
そして1981(昭和56)年に東洋はり医学会関西の前身である「北大阪支部(後に関西支部に改名)」が結成されました。当時は支部長の宮脇和登はじめ、伴吉信・浜本勲・桝室敏郎・溝口末広・奥山徳二・菊田博の7名により発足し、その後順調に会員数は増加していきました。
1984(昭和59)年には、受講生320名を召集した「第9回わかりやすい経絡治療学術講習会関西大会」を成功裡に導き、1990(平成2)年には会報「逢松」創刊号発行、その後年2回ずつ発行され、現在も会報「メリディアン」に引き継がれています。
— 機は熟す 〜日本はり医学会を成し、日本はり医に成る〜 —
2005(平成17)年には『東洋はり医学会関西』と改名、2012(平成24)年に中野正得(まさなり)現会長就任、そして2016(平成28)年12月19日には、国から認可を受けた学術団体として『一般社団法人 東洋はり医学会関西』を設立し法人格を得ました。
以後、2019年3月には宮脇名誉会長による『Seminar in Paris on extraordinary vessel treatment(フランス・パリ奇経治療セミナー)』ゲスト講師として渡欧、同年10月には中野会長によるニューメキシコ州サンタフェでの『The High Desert Hari Society(北米はり協会)主催『Advanced Clinical Applications of Hari(はり臨床家プログラム)』に講師として渡米など、世界各国からの注目度も高まってきました。
また当会における膨大な臨床データを元に開発された新しい経絡治療方式(福島弘道先生が提唱した相剋調整療法+宮脇式検証方法)の進化を受け、機は熟したと判断し、2020年2月に一般社団法人 東洋はり医学会関西は『一般社団歩法人 日本はり医学会』と名称を変更致しました。
この長きにわたる歴史の中で、当会は優秀な経絡治療家を多数輩出し名実ともに大いなる発展を遂げています。
— 経絡治療を日本からそして未来へ —
経絡治療の普及啓蒙と伝承、そして病苦から患者を救う実力ある臨床家を育成するため、日々啓蒙活動や鍼灸師の学術向上に励んでいます。
それは、先人達の絶え間ない努力と経絡治療への熱い想い、また様々な人々が出会い、奇跡や偶然を重ねた歴史の上で現在我々は活動しています。
それらの尊い遺産を未来へつなぐバトンは私たちそして、これを読んでくださっている貴方に託されています。
日本の鍼灸が正道に立ち帰り、さらに発展することを念願して止みません。